「最終章…井の中の蛙大海で散る…の巻か。
 フフ…ほどほどにあっぱれ…あっぱれ…」

自来也はペインとの戦いに敗れ、
自らの歩んできた物語、自来也豪傑物語を結びました。
その最終章のタイトルとして選んだのは、
井の中の蛙大海で散る
このタイトルにはいったいどういった意味が込められているのでしょう。

自来也から学ぶべきこと

「忍は生き様でなく死に様の世界…。」

自来也の目指した生き方、そして死に方。
それは歴代火影のような何かの偉業を成し遂げて、
立派な忍として死ぬこと。
数々の失敗を繰り返してでも、それでもその試練が己を磨いてくれる――
そう信じて辛い日々や情けない自分を肯定し、生きてきた。
物語の“立派な結び”を求めてきたのです。
そして、偉業を成し遂げようとした結果としてペインに敗れてしまった。
それは決して納得のいくような結びではなかったはずです。
ですが、最後の最後で“あっぱれ”だったのです。なぜでしょうか?


井の中の蛙、大海を知らず”という諺は、
広い世界を知らずに、自分の知ってる狭い世界が全てであるように思っていることです。
この井蛙<せいあ>も、海に住んでいる亀から海の話を聞くまでは
自分が住んでいる井戸の中が一番だと思っていた、という寓話があります。
私たちも狭い視野にとらわれたり、ある価値観に縛られたりして、
正しく物事が判断できなかったり、いろいろなことを認めることができずに、
柔軟に考えられないことが往々にしてあります。
さながらこの蛙のように、自分の見識の狭さを知り、己を恥じることも多いでしょう。
でも“生きる”とは誰だってそういうことです。
あるときは頑なに自分を信じ、間違っていれば恥じて反省する。
そんな繰り返しの荒波に揉まれ、ときに打ちひしがれ、私たちは生きています。
それでも広い世界の全てを知ることはできません。
どこまでいっても私たちの知る世界は“狭い”のです。
その狭い世界の中で、狭いゆえ避けようのない襲い来る苦しみの中で、
私たちは精一杯何かを求めるように生きていきます。
しかし“結び”は決して用意されていないのです。“結び”だけではありません。
この波を乗り越えるのに必要な燃料“生きる意味、目的”“つながり”*1すら用意されてません。
各々が自分で拵え、そして生き抜いてくより他にないのです。
自来也もこの荒波とは無縁ではなかったはずです。
失敗し、それでもそれを試練だと思って、自分を磨いていく。
そうやって見識を広げて、井戸の中から這い出てきた蛙は、
とうとう海にたどりついたのです。生き抜いてきたのです。
海は確かに広い。でも、蛙にとってみれば何もないでしょう。
今まで成し遂げてきたことを認めて、褒め称えてくれる存在もありません。
あるのは、あきらめずに生き抜いてきた――忍び堪えてきたという実感と満足。
そして心の中には自分の思いを託すことができるつながりの存在。

「あきらめねェ…それこそがワシのとるべき本当の“選択”だった。
 ナルト“予言の子”は間違えなくお前だ。…あとは全て託すぞ!!」

最後の最後であっぱれと言えるかどうか。
それは人としての、生命としての誇りがあったからだと言い換えられないでしょうか?