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448 『形見』
448話『形見』では、ナルトの核あるいは芯に触れる内容が描かれています。
そのため必然と書く分量が多くなり、記事も前半と後半に分けたいと思います。
後半部分はこちらへ。
→NARUTO【呪われた世界で輝くもの(後編)】
さて前半部分では、
ナルトと長門にミッシングリンクのようなものがあったことについて触れます。
ナルトが長門に単独で会いに来たことから、
自来也が長門を予言の子だとかつて信じるに至ったことまで。
いろいろな伏線がこういった形で回収されるとは――。脱帽です。
1.形見(1)
「自来也先生の信じた事を信じてみる…か。
なるほど…それがお前の答か。で……オレ達に――
お前が世界を平和にするのを信じて待てとでも言うのか!?」
一見的を外れたようなナルトの“答”《信じること》。
長門はふざけるなと一喝します。
今さら自来也の言った悠長なことなど信じられない、と。
「本当の平和などありはしないのだ!
オレ達が呪われた世界に生きているかぎり、
そんなものはありはしない!」
自分がつくりだそうとしていた“平和”でさえ、
本当の平和ではない――ということを重々承知だったのでしょうか。
自来也が望んだような憎しみのない平和こそ望まれるものかもしれない。
でも、この世界はそんな悠長な枠に収まりきることができないほど、
共存と競争に揉まれた無秩序の混沌とした世界。
現実的に見れば0か1かの単純な世界でもなければ、
何かの元凶を取り除いてみたところで、
“憎しみ”がなくなるわけでもない、そんな世界なのです。
だから長門は忍が皆、秩序に納まるような世界――
“平和”を無理やり作り出そうとした、ということでしょうか。
もちろん長門の“平和”は、理解しあったり、
憎しみから解放されたりということはありえない。
むしろ、それらを無理やり押さえつけることで、
型通りの枠に押さえ込もうとするやり方です。
この《呪われた世界》に絶望した長門は、
現実主義的なようでいて《呪われた世界》の悪い側面を視るあまり、
このようなやり方しか見出せなかった――というわけです。
長門に軽視された心や感情といった人間的な側面、
それこそが自来也の言っていた《理解し合う》ことや、《憎しみがない事》にあたるわけですが、
イタチがサスケに託したように《本当に大切なモノ》を共有することや、
《つながり》といった人間同士の協力的側面、
すなわち《信じること》が平和への答だとするナルトとは
こうして一線を画すというわけです。
「なら…オレがその呪いを解いてやる。
平和ってのがあるならオレがそれを掴み取ってやる。
オレは諦めねェ!」
《呪われた世界》にかかる《呪い》を解く――
それはこの世界は絶望だけに支配されていない、ということでしょうか。
諦めないという想い――《呪われた世界》に《希望》という光も存在するということ。
さて、この台詞はド根性忍伝に書いてあった台詞。
思い当たる節があるのか長門ははっとします。
「本の最後にこの本を書くヒントをくれた弟子の事が書いてあった。
アンタの名前だ…長門。」
長門と話がしたいといって木ノ葉の仲間の制止を振り切って
単独で長門の前に来たナルト。
――言わずもがな、こういった背景があったわけです。
2.形見(2)
「そんな…これは偶然か……?」
動揺する長門。ある日の情景が長門の脳裏に浮かびます。
それは自来也が一人でラーメンを頬張ってるところに、
長門が入ってきた場面。
「先生が前に言われたこの世界の憎しみについて…
ボクなりに考えてみました。」
先日自来也にこの世界に蔓延<はびこ>る憎しみというものをどうにかしたいと聞かされ、
色々長門なりに考えたことを自来也に話している場面です。
「…ほう。何かいい案でも見つけたかのォ?」
「………。平和……。……、そこへ行く方法は、
まだオレにも分かりません…。でも…、
いつかオレがこの呪いを解いてみせます。
平和ってのがあるならそれを掴み取ってみせます!」
「方法より大切な事…。
要はそれを信じる力です!」
信じる事――、それこそが力であると。
仲間を信じる、自分を信じる――
そして信じ続ける想い――《諦めない》想いというわけです。
「そうか…いい案だの。
確かにそうかもしれん。」
自来也は長門の言<げん>を真摯に受け入れると同時に、
本を書くにあたってのテーマを閃いたようです。
「さて! …そうなるとまず主人公の名前を何にするかだが…」
そして何気なく見つめるラーメンの丼。
麺、チャーシュー、ねぎ、しなちく(メンマ)、のり…
数ある具の中で自来也はなるとを選んだのですが、なぜでしょうか。
長門こそ《成長》して、かつての六道仙人のように、
人々を救済することができる予言の子だと――
そう願って書いた物語でもあるでしょう。長門への感謝も込めて、
“長門<ながと>”を捩って“なると”を主人公の名前に選んだ
と考えるのが自然ではないかなと思います。
それがたとえ自来也の気まぐれだったとしても、“ながと”という意識があって、
無意識のうちに自来也は“なると”を目にとめてしまったのだとも――。