1.真実の多様性(1)

心の中に信ずるものがあると、すなわち自分の生を肯定するような意味性を感じると
生命が輝き強く感じられるようなことを【忍の生き様、死に様】*1では書かせていただきました。
ペイン――否、長門は自分の信ずる“それに従って生きて死にたいと思う理想”を、
すなわち自分の生に対する意義をもっています。
それは自分なりに考え出した正義とそして平和への理念。
この“それに従って生きて死にたいと思う理想”が正しいことなのか間違っていることなのかは別として、
そういう人物はすべからく、心が折れないために“強い”といえるでしょう。
しかし大事なことは、自分の思う“それに従って生きて死にたいと思う理想”だけが、
この世の全てではないことを理解しているか否かなのです。
この世の生きとし生けるものすべてが、生命の営みをもっています。
共存と競争、淘汰、絶滅の危機――あらゆる過酷な自然の営みの中をくぐりぬけて、
その生命を輝かせているのです。

「そうか…それは立派な事だ。それこそ正義だな。
 だが…オレの家族をオレの仲間をオレの里を――
 この里と同じようにしたお前たち木の葉の忍だけが…
 平和と正義を口にする事を許される訳ではないだろう?」

“それに従って生きて死にたいと思う理想”はその輝きをさらに強くしてくれるものです。
母ライオンが飢えた子供を満たしてやるためにスイギュウの子供を狩ることがあるように、
母スイギュウが我が子を奪い返すために、危険を顧みずに捕食者のライオンへ襲いかかるように、
それぞれの正義があって、そうやって輝いているのが生命でもあります。

「だが復讐を正義と言うならば、その正義はさらなる復讐を生み…
 憎しみの連鎖が始まる。
 今、その事象の中に生き、過去を知り、未来を予感する。
 それが歴史だと知る。」

そういう世の中だからこそ、それぞれが自分の正義の中で生きることに手一杯で、
それは必然と大事な人やものを奪っていくことになり、
憎しみや悲劇の連鎖を繰り返すことに他ならない――

「お前もオレも何も変わらない。互いの正義のために動く。
 オレが木ノ葉に対してやった正義は…、
 お前がオレにやろうとしている事と同じだ。
 大切なものを失う痛みは誰も同じ。
 お前もオレもその痛みを知る者同士だ。」

そうやって織り成されていったものが歴史ととらえることもできる。
しかし果たして憎しみの連鎖が全てだととらえていいのでしょうか?

2.真実の多様性(2)

以前【ナルトVSペイン7・それぞれの正義と平和】*2では、

    • 世の中不思議なことに絶対正しいことよりも絶対間違っていることの方がほとんど

としましたが、例えば四則演算において1+2=3
というのは紛れもなく絶対正しい事だと言えます。ところが、

  • その1.習字において、筆で字を書く。
  • その2.書けた字が上手い
  • その3.コンクールで賞をとる

においては1+2=3ということ、
すなわち【その1+その2=その3】となるとは言えなく、絶対正しいとは言えません。
このようにある側面においては絶対正しいことも、
違う側面から見れば絶対に正しいとは言えなくなることも多々です。
側面の見方を変えるのは状況
この場合四則演算という状況と習字の目標段階という状況での差異によるものです。
このように真実を側面的に見れば、
絶対に正しいことも、絶対に間違ってることも内包します。
例えば先の四則演算での状況を見てみた場合を例にとれば、
1+2を満たす数は3のたった一つだけです。
膨大無限にある数のなかでもたった一つだけが正しく、他の全ては間違っているといえます。
絶対正しいことよりも絶対間違っていることの方がほとんどというわけですが、
あくまで多様性をもつ真実の側面の見方については絶対正しいか否かなので、
真実それ自体が正か否かというのはこれとは別問題という点を踏まえておきます。
つまるところ真実とはこのような状況の多様性を持てば持つほど、
全体像で“絶対に正しい”とか“絶対に間違っている”というような
正否どちらかに括れる性質を持たなくなります。
そうだからこそ、真実の正否性を問うときに、
“真実”と呼ばれるもののあらゆる側面を見てみて、
相対的に正しいとか相対的に誤りであるというような判断を下すわけです。
“それに従って生きて死にたいと思う理想”も多様性をもつ真実の一つ。
生命力を強めてくれる点は肯定できますが、
絶対の正義や平和であるかという点についてはもちろん絶対に正しいとはいえません。

3.愛の連鎖

人は正しい方向を理解していても必ずしもそちらへ行動するわけではありませんが、
長門の場合は“それに従って生きて死にたいと思う理想”=“自分の考える平和”であるため
“自分の考える平和”が正しいと考えて行動しています。
長門にとっては自分が貫こうとしている痛みによる平和こそ真実なのかもしれませんが、
それは他の人々にとって平和であるとは必ずしも言えないわけです。
それでも平和というものが相対的にみて正しくあるのはこういう姿だ、
と平和という真実のあらゆる側面を検討して行動しているならまだ話は分かります。
ところが長門の場合そうではない、と言わざるを得ません。憎しみの連鎖にだけとらわれて、

「人は決して理解し合う事のできない生き物だと悟らざるを得ない。
 忍の世界は憎しみに支配されている。」

と一つ括りにしてしまっている点が論拠です。
本当に人は理解しあうことができない、憎しみに支配されているものと言えるでしょうか?
実は憎しみの連鎖を断つものは“痛み”ではありません。
憎しみの連鎖の中にいるとなぜかいつも見えないのですが、
もっともっと大事なものがあります。“愛の連鎖”です。
人は一人だけでは生きてはいけません。
それぞれ大事に想い合い、助け合って生きている、そういう関係があります。
ところが一度<ひとたび>大事なものを失うと、そういった関係が見えなくなって、
大事なものを失った原因ばかりを考えるようなり、
その大事なものを再び手にしようとするあまり、憎しみの連鎖にはまるのです。

でもその憎しみの連鎖の中にあって、それでも手を差し伸べてくれたり、
助け合ったりする“愛”がその憎しみを和らげ、
大事なものは失ったものだけじゃなかったのだと気づかされるのです。
こうして“愛”と“憎”の連鎖が、まるで私たちを形作るDNAの二重螺旋のように
互いに織り成しバランスをとることで、私たちは“生きられる”わけです。
しかし憎しみの方が愛よりも見えやすいですし、
その失った痛みに匹敵するほどの愛がなければ愛は見えてきません。
だから憎しみが全てだと勘違いしてしまい、自分からは愛に気づきにくくなるのです。
長門は憎しみにとらわれ、愛の視点での平和の真実性を見ていません。

「……だからって…そんな平和…
 そんなの嘘っぱちじゃねえかよ!!」

愛によって人は理解しあうこともある。だからこそ、長門の平和は“嘘っぱち”なのです。

長門…あまり無理をしないで…
 もうずいぶんチャクラを使ってる。」

長門はその痛みの深さゆえに気づいていない本当に大切なもの、“愛”に気づく必要があります。
どんなときも長門の傍にいて、長門を心配してくれている存在――小南のことを。
それに気づかせてやれるのは、我愛羅を憎しみの檻から解放し、
サスケに憎しみよりも大切なものを気づかせようと躍起になっているナルトということでしょうか。
憎しみの他に愛を知った長門が、それでも目指すべきものが“痛みによる平和”かどうか――
長門なら理解できるでしょう。人と人が理解しあえることを。