1.マダラへの離反

「双方の一族の誰もが長く終わりのない戦いに疲れきっていた。
 限界にきていたのだ。」

“千手”の対抗組織としてあった“うちは”は、
千手が戦場に駆りだされれば、うちはも駆りだされ、
結果として幾度となく戦火を交え、
その果てしない戦いは双方に疲弊をもたらすのです。
ついに、千手側の歩み寄りにより、和平が成立します。

「…今までの憎しみはどこへ行ったというのだ!?
 弟は何のために犠牲になったというのだ!?」

しかし、千手に奪われた同胞の命、うちはの為に犠牲になっていったもの達、
それらの無念や遺志を思うとマダラは和平には前向きではありませんでした。

「しょせん、うちはと千手は水と油だ。
 いずれうちは一族は千手一族によって駆逐されてしまう。
 …そう思えてならなかった。」

しかしリーダーであるマダラに耳を貸さず、
一族の他の者は休戦を強く望みました。
マダラ一人だけがこのような事態を危惧していたのです。
うちは主導となるために木ノ葉隠れの里長になろうとしますが、
火の国や里の人々も千手柱間を選びます。

「しかし、うちはの者でさえオレについて来る者はいなかった。
 部下たちは再び争いの火種を起こそうとするオレをうとましく思い、
 裏切ったのだ。」

千手と再び争うことは一族の誰もが嫌がったのでしょう。
マダラについてくるものはいませんでした。

2.マダラの失敗、そしてサスケへ

「どこに好き好んで弟を傷つける兄がいる。
 オレはただ…うちはを守りたかっただけだというのに…。」

しかし、これは結局のところ詭弁に過ぎません。
マダラはうちはの皆を守ろうと、一族としての誇りや信念のもと、
リーダーとして躍起だったのは確かです。
ですが、それはあくまで「うちはの為」だけであって「千手はどうでもよい」のです。
しょせん千手とうちはが水と油のように相容れぬというのなら、
たとえうちは主導であったとしても、再び争いは起こったはずです。
その争いでうちは一族の皆を守れたでしょうか――?
もちろんこれは千手に対しても言えることであり、
双方にはどうあがいても埋めきれない溝があって、
再び地震が起これば、すぐにその溝は深く、広がっていってしまうのです。
だから紛争や戦争はなくならないといえます。
ある意味、マダラは守りたかったものに裏切られたとはいうものの、
一族のほとんどのものが休戦を望み、実際に千手と和平を結んでしまっている段階において、
「千手とうちはは水と油」という考え方を覆さぬ限り、
うちはが千手によって駆逐されてしまうことは必然だったのです。

「オレは復讐者となり木ノ葉隠れの里に戦いを挑んだ。」

もしもマダラによるこの復讐戦がなければ、
うちはという存在が木ノ葉の危険因子とみなされることもなく、
うちはが反逆者として九尾事件で汚名を着せられることもなかったはずなのです。
マダラは一族の長として大切なものの一つ“先見の明”がなかったと言わざるをえないでしょう。
さらには柱間を倒すだけの力もなかった。
「己の器の大きさを測り間違えていた」ということにもなります。

「今のマダラは負け犬だ…。
 うちはの本当の高みを手にするのは奴じゃない。」

とイタチが批判する通りです。
とは言うものの、起こってしまったことは起こってしまったことです。
悲しい歴史を繰り返すのか、それともここで止めるのか。
その裁決はサスケの裁量に委ねられているかもしれません。

「………」

トビの目的が何であるか、サスケはよく見定める必要があります。
同時にそれは“本当に大切なモノ”を見定めることでもあります。


「一族などと…ちっぽけなモノに執着するから、
 本当に大切なモノを見失う…。
 本当の変化とは規制や制約…予感や想像の枠に
 収まりきっていては出来ない。」

イタチの心からの叫びとも言えるこの発言。
サスケの心の中ではどう響いているでしょうか?