【第一部終了時は8】による修正済み。

1.縄樹とミコト

【忍者登録番号について1・縄樹と綱手*1で考察しましたが、
縄樹とミコトは互いの忍者登録番号が非常に近いことから、同年齢で同期生として扱えると思われます。
また誕生日の関係からこの二人の年月差はほぼ12年として扱うことができること

縄樹逝去はx-27年8月10日

であることも分かりました。
さて以下の誕生日の関係から、

【ミコトの誕生日:6/1】

綱手の誕生日:8/2】

【縄樹の誕生日:8/9】

自来也の誕生日:11/11】

縄樹逝去時において、縄樹が12歳のとき、すでにミコトも12歳です。
したがって、自来也綱手との関係からこのときまだ23歳となります。

2.自来也とミコト、ミナト

【小南について1】*2において、

  • 12,3歳の少年少女の忍、20代の上忍の先生 ―(*)

という挿絵と考え、自来也とミコトについて考えられることを述べました。
前述でも示したとおり、ミコトが12歳のとき自来也が23,24歳、
ミコトが13歳のとき自来也が24,25歳です。
自来也が弥彦、長門、小南の3人の戦災孤児たちを教えていたことから、
上忍教官になったのが大蛇丸綱手よりも早かったのは容易に想像でき、
ミコト世代の先生をちょうど受け持つのに適しているのは自来也でしょう。
しかもミナトが彼の弟子であったことから、
この頃、ミナトの年齢も12,3歳くらいとなるでしょう。

よってミコトが自来也の弟子、あるいは自来也が上忍教官のときの他班の忍の生徒だとすれば、
(ミナトと同じく自来也に学んだ仲である可能性は大いにある。)

ミナトは九尾事件時が27歳あたりになり、生存していれば第一部終了時で40歳あたり。

だと考えられます。



3.半蔵戦

半蔵との戦い、雨隠れ最大の強敵半蔵が自来也綱手大蛇丸を“三忍”として称えた戦いです。

「この戦い・・・おそらく木ノ葉隠れの勝利だ お前たちは生かしておいてやろう。」

このとき半蔵は、この三人に対して、こう言いました。――が、この発言はあくまでも

  • 〈この戦い〉であって〈この戦争〉でないこと
  • 〈木の葉隠れ〉であって〈火の国〉でないこと

に留意してください。
雨隠れとの交戦になった一つの地域における戦いが、じき終止符が打たれるという意味でしょう。
つまり、

半蔵戦は忍界大戦真っ只中の一つの戦いであり、木の葉がその戦いにおいて勝利して終止符が打たれた。

と推測されます。半蔵は今後脅威となるであろう敵方の忍を生かしたことになりますが、
おそらく彼ら三人を殺すまでの余力がなかったのでしょう。
引き際がうまかった――とすればこの状況は説明されます。

4.自来也と弥彦、小南、長門

半蔵戦での舞台は荒野のようなところ。そこから場面がうつって、
弥彦達との出会いの描写は、彼らが雨隠れの内部・近郊にいるものと思われます。
自来也が弥彦、小南、長門を引き取って面倒を見ていたのは、
おそらく半蔵戦より後でしょう。

弥彦、長門が岩隠れの中忍に遭遇していることなどを考えると、
三国の忍び(岩隠れ、木の葉隠れ、そして砂隠れと思われる)が、
この地で入り乱れて乱戦になっていた――。
おそらく雨隠れは、それを少しでも阻止する目的もあって、
雨隠れの近郊の村や町周辺をやむなく巻き込んで
木の葉や岩、砂とテリトリーの奪い合いを展開していたと思われます。
弥彦、小南、長門がいたのは雨隠れの里の一部、近郊だと考えられます。
半蔵戦はこのうちの一つの戦いだったのではないでしょうか?

「多少自立が出来る様になるまでだがな。これがせめてもの償いだ」

という自来也の言葉は、
この子達の里をこんなにしてしまったのは自分たちの責任だ――
自分たちのせいで、この子達が孤児になってしまった――
と痛切に感じていたために、口から思わず出てしまった言葉だったと思います。

また、半蔵戦前に弥彦達との出会いがあったことも考えられますが、
流れとしては彼らの面倒を見ていたときに、
半蔵戦があったことは考えにくいことと、
彼らと別れるときに安心して里に帰れるといったこと、
そして彼らを3年ほど面倒を見たこと、
諸々を鑑みると半蔵戦より後にこの出来事があったと見た方が自然です。

5.半蔵戦〜孤児の年齢

次に半蔵戦がいつごろあったのかから、弥彦、小南、長門の年齢を推測します。
自来也綱手大蛇丸はこの三人でスリーマンセルを組んでいますが、
よく考えてみると、ある先生の生徒3人がスリーマンセルを組むというのは、
年齢的にかなり若いと思われます。
(ジャンプ収録の372話の扉絵の謳い文句には、

  • まだ伝説と呼ばれる以前、盛夏に繁る青葉の時代、彼は彼らと出会っていた。

とあるのでまず間違いないでしょう。)
そして綱手が戦線の最前線にいたことを考えると、
血液恐怖症となってしまったダン死亡後以降とは考えにくいです。
次のように場合分けが考えられます。

縄樹死亡以前の話。すなわちx-27年以前 ―(A)

この場合、x-27年縄樹死亡前までなので、綱手自来也はともに23歳が考えられる最大年齢。
(ただしこの年の8月2日〜8月9日の綱手が24歳になった期間は考えにくいので除いてある。)
先の考察を考えると時期的にx-27年は自来也が上忍教官であった可能性は高く、
ミナトを教えていた場合、当然ミナトら生徒とスリーマンセルを組むほうが自然でないかと考えられ、
かつてのスリーマンセル(自来也綱手大蛇丸)で戦地任務を行うことは考えにくくなります。
また戦地任務の期間で弥彦達を養っていることを考えると長期任務の可能性が高いです。
となると、この任務は自来也がさらに若いとき、すなわち、下忍・中忍担当の上忍教官、先生につく前、
19〜20歳くらいの話ではないかと推測されます。
373話にて、彼らに3年ほどの稽古をつけており、その後、
安心して里へ帰れるとしていることから、
この後、木の葉にて上忍教官としてミナトらを育て上げたことになるのでしょう。

流れをまとめると以下のようになります。

  • 弥彦・小南・長門を雨隠れでの戦争任務期間中引き取る。
  • →3年間、三人が忍術がある程度使いこなせるまでにさせる。
  • →木の葉の里に帰還した自来也
  • →上忍教官になることを決意。
  • →ミナト(およびミコト)たち下忍(あるいは中忍)を生徒に持つ。

仮に自来也綱手大蛇丸の三人が誕生日を迎えれば20歳頃の事だと仮定して、
弥彦達の容姿は5,6歳あたりだと思われます。
三人と別れたのは彼らが8,9歳の頃。
彼ら自来也影分身戦からの描写からも、相応の年齢だと推測されます。
(アカデミー卒業年齢などを参考に。この世界の5,6歳はしっかりしているものと思われる。)
暁現在の彼らの年齢は第一部終了で36,37歳。第二部で38,39歳と思われます。


縄樹死亡後、ダン死亡前の話。すなわちx-27年〜x-23,22年 ―(B)

(A)と同じ理由で、三忍の三人がスリーマンセルを組むということは、
担当の下忍をそれぞれが持っていないと考えるのがやはり順当でしょう。
この場合、ミコトが自来也の弟子あるいは自来也教官時の下忍の一人であることは時期的に不適となります。
したがって、多少ミナトの年齢が変わります。
この場合、三忍の三人がセルを離れてそれぞれ別の行動をしだし、
綱手がダンと恋仲になり、ダンと一緒に任務をするようになる期間や、
自来也が弥彦、小南、長門の三人を3年程面倒をみていたことを考えると、
縄樹死亡からそんなに経っていない期間辺り、つまり自来也の23歳あたりが考えられます。
(A)と同様に弥彦達の年齢を当時5、6歳だとすれば、
暁現在の彼らの年齢は第一部終了で33,34歳。第二部で35,36歳だと思われます。
またこの後下忍のミナトらを受け持ったとすれば、
それは自来也が27歳くらいの話になり、
ダン死亡前後の話になるでしょう。

5.半蔵戦〜孤児の年齢(2)

で、最終的に(A)、(B)どちらの話が筋が通るかというと、
(A)も(B)ありえます。
(A)、(B)の考察に加えて
三忍が「盛夏に繁る青葉の時代」の若い設定であることや、
綱手が生き生きしていることから縄樹死亡前ではないかということ、
(B)だとすればミナトが四代目として就任するのが、25歳を切ってしまうこと。
諸々から若干(A)である方が筋は通ります。
ただし、暁の小南、ペインの二人の年齢が若い方をとると(B)となります。